日本の瓦産業は三河(三州)、淡路、石見(石州)の 3 ヶ所の産地しかない。他の産地は競争に敗れ 、廃業し、結果   として 3 ヶ所の産地のみが生き残りました。三大産地の瓦生産枚数シェアを見ると 3 産地  合計した割合は 85 %
   (平成12 年現在)を超えています‥。
  ・淡路の瓦産業はいぶし瓦に特化して生き残った。本瓦葺きの部品が 100 以上も必要なため一工場がすべての部品を作るのではなく地域内で規格を統一し部品を作りあう役割分担をした。つまり 「部品専業」 のかたちを彼らは作り出したのだ。また京都や奈良の瓦産業の下請けを淡路が行ったことから大きな需要を確保でき組織強化に つながった。⇒写真は瀬戸内を望む西淡町津井港、海岸線は古い瓦のカケラでいっぱい!
 
 

■淡路瓦の始まりは約400年

日本で初めて瓦が葺かれたのは、崇峻天皇元年(588年)のこと、朝鮮の百済から4人の瓦博士が来て、蘇我馬子によって建てられた飛鳥寺(法興寺)です。今から約1400年前のことで、その十年後には淡路島でも瓦を焼いた窯後が発見されています。しかし文献等で確認できる淡路瓦のはじまりは、江戸時代の始め、1610年(慶長15年)に淡路は姫路の池田輝政の領国となり、輝政は岩屋に城を築きました。1613年(慶長18年)には輝政の三男、池田忠雄が領主となり、洲本市由良に成山城(なるやまじょう)を築きました。その時忠雄は播州から播州瓦の名工、清水理兵衛を呼び寄せ、城の瓦を焼かせたのが現在の淡路瓦の始まりと言われています。清水理兵衛が播州に帰った後、淡路に残った理兵衛の弟子たちが、松帆(西淡町)・尾崎(一宮町)・阿万(南淡町)・釜口(東浦町)などで瓦の製造を始めました。

その中でも、淡路瓦の中心地である西淡町津井地区は理兵衛が来てから十年余り後、寛永年間(1624〜1643年)に法華宗の援助で当時、貧農の土地であった津井地区に「何とか主たる産業を興そう」と伝わったと言われています。

 
 

★乾燥後の歪み・ひずみを見越して、乾燥中も微調整を   繰り返します。これが永い時間に培われた“カンと塩梅”(カンとアンバイ)です。(季節、気候、温度により力加減が 変わります。)

     
 
  ■“カンと塩梅”プラス“オートメーション化”=安定した製品作り
 

淡路では、常に最高のいぶし瓦をつくるため、全自動ラインによる徹底した品質管理を実現し ています。しかし、瓦はもともと天然の素材であることから、完全に自動化できない部分があるのも事実。そこで、瓦づくりを機械任せにするのではなく、コンピュータ制御に “ カン ” や “ 塩梅 ” といった職人の技を取り入れ、独自の製法を確立し、クオリティや付加価値の高い製品を生み出しています。

 
 

1.原土:淡路で採れる厳選された土を使用します。焼き物は原土が原点。淡路瓦ではより安定した原土を得るために原土処理に力を入れています。
2.粉砕・加水:土の粒度を均一にならします。原土の変化に合わせて水分調整を行ないます。

  1.乾燥・平干し:季節の変化による歪みがでないように乾かします。
2. はけ土を塗る(微粒子のクレーを水に溶いたものを塗布し、表面を滑らか)。
   
  1.真空にした土を練り、口金から押出し:ココで出来具合の70%が決まります。
2.成形:一定の圧力(10t〜40t)を加えて、カタチを整えます。
  1.焼成:均一に焼き上がるように、温度調節は、1000度以上で自動制御しています。
2.燻化:密封状態で生ガスを使用して燻化。この段階でいぶし瓦の完成です。
3.適正温度管理で冷却。技術者の打音での音チェックと機械の歪みチェックで製造完了です。